高松城は、天正16(1589)年に生駒親正公によ
って、築造されました。
生駒氏は、大和の生駒に住し、地名を氏としておりました。
はじめは、信長公に仕え、ついで秀吉公に仕え、
そこで功があったので、播州赤穂で、雅楽頭(うたのかみ)に任ぜられました。
はじめは、引田城に入りましたが、あまりに東に偏っていたので、宇多津の聖通寺山の古城に移りましたが、ここは狭く、結局香東川の三角州で、北は海、西は西方寺山、西南には紫雲山があり東には詰田川・春日川・新川があり山と川の自然の要塞であった、香東郡蓖原庄(のはらのしょう)海辺の八輪島に城を築くことを決めました。
(香東郡蓖原庄は、現在の高松で平安時代は蓖原郷と呼ばれていました。その後、鎌倉時代には、大覚寺の荘園でした。)
城の設計については、藤堂高虎説、黒田如水説、細川三斎説など様々な説があり未だにはっきりしてはいませんが、沖合の八輪島を中心に周囲20町(2.2キロ)の新城を築きました。
西に堀川港、東に東浜港、南方だけが陸地で水陸の攻防と水運を考えて築造した全国でも珍しい水城です。
もともと屋島の南側に「高松」という地名がすでにあったのですが、その地を「古高松」とし城の名前を「高松城」としました。
取り壊される前の天守閣
生駒家は、この後4代54年間この地を治めましたが、お家騒動のため出羽国矢島へ移封されました。
その後、讃岐国は高松藩と丸亀藩の2藩となり、高松藩に松平頼重公が初代藩主として、寛永19(1642)年入封してこられました。
その後も修復改築を続けていき17の櫓を数え、三層五階南蛮造りの特異な構造の天守閣を持つまでになりました。
月見櫓
月 見 櫓 (つきみやぐら)
艮櫓 その後、明治維新となって、明治4(1871)年の廃藩置県により高松城は、廃城となり、残念なことに明治17年に天守閣が、取り壊されてしまいました。
そして、第二次世界大戦後、天守西側の堀が埋め立てられ、昭和29年1月高松城を高松市が譲渡され、翌30年5月5日から玉藻公園として一般に開放され、現在に至っています。
 艮  櫓
(うしとらやぐら)