左近公は、8代高松藩主松平頼儀(よりのり)の子として文化6年(1809)江戸・小石川の高松藩邸に生まれました。
本来ならば、藩主となるはずでしたが、事情があり、藩主は異母弟である頼胤(よりたね)公に譲っています。
左近公は、熱心な法華教の信者ということもあって、いたって慈悲深い性格でした。左近公は、連枝という立場もあって、交友範囲が大変広く、慶喜公にはじまって、桂小五郎、日柳燕石、高杉晋作、長谷川宗右衛門、藤本鉄石といった多方面の人々と交友がありました。
その中でも代表的な人は、京都・興正寺の摂信上人でしょう。この上人こそ後の朝敵事件の際に大きく貢献する人です。
また、風流なところもあり、芝居が好きで、自邸に劇場をつくり大坂から演出家を呼び、自らも女形を演じたとも言われています。
それだけでなく、かなり頭脳明晰であったといわれており、23歳の時には「遊坂出墾田記」(さかいでこんでんにあそぶのき)の名文をしたためています。
本堯寺 絵画もうまく、土佐派を学び、後に狩野派にもおよび風俗画は抜きんでていたようです。
自画像や、生母の像、石清尾八幡宮祭礼図などの絵巻は大和絵風で素晴らしいできのようです。
こうした文化面をみていると、いかにも青白いインテリを思い浮かべますが、武術にもかなり精励していたようです。
左近公の菩提寺
本堯寺
弓はかなりうまかったようで、40メートル離れたところから径5センチほどの的に百発百中であったとか。
また、馬術、槍、剣、他に縄術などにも優れていたようで、文武両道の方のようでした。このように多方面に才能を発揮し、各方面に顔の利く公が実力を発揮したのが、朝敵事件のときでした。
慶応4年の鳥羽・伏見の戦いの折り、高松藩は幕軍に参加していましたが、あやまって高松藩兵が発砲したため、朝廷より錦旗に反抗したとして追訴令を出されました。
朝敵となってしまった高松藩は、大騒ぎとなりました。左近公の知り合いの摂信上人の尽力で、「指揮官の2人小河、小夫両家老の切腹と12万両の寄進」で決着が付きそうになりましたが、家臣たちが納得せず、徹底抗戦に向かいつつありましたが、左近公の鶴の一声にて収まり、高松藩は無事おとがめなしと言うようになりました。
その後、しばらくして無事を確認したかのように左近公は亡くなり、本堯寺に埋葬されました。
現在のこの素晴らしい高松があるのも、左近公の大きな力のおかげではないでしょうか。